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橋本努『自由に生きるとはどういうことか――戦後日本社会論』

 

ちくま新書2007年11月刊行

 

目次

 

 

 

はじめに

 

君は自由に生きているだろうか

「自由」をめぐる戦後日本史――本書のあらすじ

 

 

第1章 連合国軍に学べ――敗戦直後の自由論

 

敗戦直後のアナーキーのなかで

カストリ雑誌の爆発的ブーム

肉体の解放こそが人間の解放だ――「肉体小説」と『チャタレイ夫人の恋人』

間奏 日本映画のエロス化について

人間だから堕ちるのだ――坂口安吾の場合

まるごとの自己肯定――三島由紀夫の敗戦体験

これまでのまとめ・その1

自由からの逃走

慶應義塾塾長・小泉信三

共産主義批判の常識

スポーツマン精神が自由社会の基礎である

なぜ連合国軍は「強い」のか――パブリック・スクール論

パブリック・スクールの教育――規律と自由

これまでのまとめ・その2

 

 

第2章 ロビンソン・クルーソーに学べ――一九四〇-六〇年代の自由論

 

全体主義への傾斜――パブリック・スクール型自由主義の困難

パブリック・スクールの没落

他の自由主義者たちの場合

自分で考え行動する「個人」をつくる――大塚久雄の自由主義

統制経済の倫理と市場社会の倫理

軍国主義を批判できなかった戦後自由主義者たち

経済人ロビンソン・クルーソー

クルーソーの孤島生活

ロビンソン・クルーソーに学べ!

「期待される人間像」をめぐる論争

定住か、冒険か

 

 

第3章 真っ白な灰に燃え尽きろ――一九六〇年代後半の自由論

 

前奏 高度経済成長の精神

下からのスパルタ主義――なせば成る!

鬼監督・大松博文

コレデモカ、ナニクソ――大松式練習法

スパルタ的全能感としての自由――おれについてこい!

真っ白な灰に燃え尽きる自由

団塊世代の青春――「疎外の克服」と「資本主義の矛盾の解決」

マルクスから『あしたのジョー』へ

自己否定せよ

若者たちの自由主義革命――全共闘運動の時代

民青と全共闘

「溶解志向」に突き動かされた全共闘

『あしたのジョー』誕生

矢吹丈の叫び

野性の闘争本能――矢吹丈と力石徹

『あしたのジョー』と「世界革命の精神」――政治の季節の終焉

マイホーム・パパとの最後の闘い

青春を燃やし尽くした後にどう生きるか

 

 

第四章 この支配から卒業せよ――一九七〇-八〇年代の自由論

 

尾崎豊の死、若者たちの「生き難さ」

七〇-八〇年代という時代――オタクと新人類

情熱苦悩系の音楽

〈学校的なるもの〉の過剰

フーコー的世界からの自由

管理社会のカラクリ

「仕組まれた自由」からの卒業は可能か

「麻薬の幻想」と「消尽としての消費」

刹那的生活の果て

「愛の他者性」を生きる

愛の不可能性――「胎内回帰」への願望

自己肯定感の欠如

夭折の裏側で

すりかえられた自由

尾崎豊略年譜

 

 

第五章 ぼくはぼくを好きになれそうだ――一九九〇年代の自由論

 

オウム真理教の台頭――終末の時代の自由とは?

麻原彰晃/オウム真理教年表

井上嘉浩の「願望」

オウム勧誘の論理――大きな敵に立ち向かえ!

〈本当の自分〉探しの思想

グノーシスの希求

エヴァンゲリオン登場

エヴァンゲリオンが成功した理由

懊悩消費――大人になるにはどんな苦悩が必要か

エヴァンゲリオンの自由論

母性回帰とタナトスの両義性

僕は見捨てられるんだ――共同幻想の拒否

シンジにとっての自由とは何か

「よい子型順応人間」の悲哀

ちっぽけな自分を肯定すること――自由社会の倫理的基礎

母性回帰から芸術創造へ

 

 

第六章 最高のトレッキングシューズを買え――二一世紀の自由論

 

九九%はクズ

創造階級/ボボズの台頭

「ボボズ」の生活信条

世界を席巻する生活スタイル

ハイ・コンセプトの時代

顧客の変革――新たなビジネス・モデルの成長

勤労エートスから創造のエートスへ

「創造性」に群がる人々

創造階級のグローバルな競争

どうすれば創造性を高められるか

ギークスの台頭

ウェッブ社会の創造者たるか、「スーツ」に甘んじるか

顕示的消費から「自己開発志向」の消費へ

潜在能力を実現する自由――フリーエージェント社会の到来

「創造としての自由」はいかにして可能か

格差問題の本質

貶斥(へんせき)社会日本――現代の閉塞感について

格差問題への処方箋――「創造としての自由」の実質的な意味

自由主義は「空想的」であらねばならない

 

 

参考文献

 

あとがき

 

(小見出しの作成は、編集部の増田健史氏による)